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大東亜聖戦大碑慰霊祭・・・・・・・・・・・・・平成26年8月5日(火曜日)
昨日は、金沢にある『大東亜聖戦大碑』慰霊祭に参加。
この碑は、大東亜戦争は侵略戦争ではなく、日本の存亡をかけた自衛戦争であり、アジアの開放を目指した聖戦であったことを未来に残すために建てられたものである。
その存在は以前から知っていたが、参拝する機会もなく、時を過ごしてしまった。
今回、縁があり、慰霊祭、総会、記念講演会に参加することができたことは、私の喜びとするところです。
これを機に『大東亜聖戦大碑』護持会に入会し、同じ思いを持つ者として、多少でも力になりたいと思う。
この碑は、平成10年に建立されたが、現在の会長は田母神俊雄氏である。
今回の記念講演も、田母神氏が、彼の思いを熱く語られた。
以前、田母神氏は『私は元航空自衛官として、一度母艦から飛び立ったら、敵艦を撃沈するまで着艦はしない』と、決意を語っておられたが、新党結成を目指すことは、我が意を得た思いである。
私は今まで自民党を応援していたのであるが、消去法でいくと自民党しかなかったからであり、自民党に絶対の信頼を置いていたわけではない。
そもそも、日本をこんな国にしてしまったのは自民党ではないか。彼らは、憲法改正もせず、大衆におもね、自己の政治権力の増大を至上の目的とする権力欲しか目のない政治屋である。
権力を増大するためには、国も売る輩すら名を連ねているのが自民党である。
今こそ、真の保守政党が出てきてほしい。それには、田母神氏以外にはいないと信ずる。
見上げるばかりの大東亜聖戦大碑
熱く語る田母神閣下
軍歌祭でおなじみの、三枝万祐(さえぐさまゆ)ちゃんも駆けつけてくれた。
支那事変検証・その4・・・・・・・・・・・・・平成26年8月3日(日曜日)
支那事変勃発は7月7日か、8月13日か、『たった40日足らずの違いなどどうでもいいではないか』というわけにはいかない。大事なことである。
支那事変勃発が7月7日であるとするなら、『日本軍も国民党軍も、共産軍の策略に騙され、戦乱に突入した。その後に起こった廊坊事件も広安門事件も通州事件も、戦闘中に起こった正当な攻撃である』ということになる。
8月13日であるとすると、『国民党は盧溝橋事件の後結ばれた停戦協定を無視し、戦闘を回避しようとしている日本軍に執拗に攻撃をかけ続けた。さらに平和に暮らしている日本租界に攻め入って女子供を含む民間人を虐殺、日本は邦人保護のため、やむを得ず応戦する羽目となった』ということになる。
この違いは支那事変の見方を全く変えることとなる。
支那としては、自分たちが起こしたすべての事件を戦闘中のこととしなければならない。だから『支那事変勃発は7月7日』としたのだ。
それでも民間人虐殺は言訳が効かない。そこで南京事件をでっち上げ、相殺させようとたくらんだのだ。
誰が支那事変勃発日を7月7日にしたのか。
たぶんGHQが支那におもねり、GHQに尾っぽを振る日本の歴史学者がウソを定説としたのであろう。
南朝鮮のクネクネ酋長に言われるまでもなく『日本人は正しい歴史を認識しなくてはならない』時が来たのではないだろうか。
完
支那事変検証・その3・・・・・・・・・・・・・平成26年8月2日(土曜日)
これを知った日本人は、激怒したが、それでも隠忍自重した。
しかし、さらに追い打ちをかけるがごとく8月9日には、自動車で巡察中の日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉と斎藤嶼蔵1等水兵が中国軍に惨殺されるという事件が起こった。
支那国民党は、ご丁寧にもひとりの支那人死刑囚に国民党軍の軍服を着せて、飛行場の門外で射殺し、日本側が先に発砲したように見せかけるための工作までしたのだ。
しかしこれは弾痕から日本側のものではないことが明らかとなり、陰謀は成功しなかった。
8月13日午前10時半、さらなる挑発が行われた。上海居留民保護のため駐屯していた海軍陸戦隊の陣地に機関銃による攻撃が開始された。
第2次上海事件である。
陸戦隊は不拡大方針に基づいて極力交戦を回避するとともに、戦闘区域が国際区域に拡大しないよう努め、飛来した中国軍機に対しても対空砲は撃っていない。
午後9時になって、5千人の陸戦隊に対し、20万人の国民党軍が総攻撃に移り、日本の軍艦に対する砲撃もおこなった。この事態を知った日本政府は、14日夜から緊急閣議を開き、それまで日本側が取ってきた事態の不拡大政策を見直し、8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した。
今まで隠忍自重してきた日本人も、堪忍袋の緒が切れたのである。
下の写真は、昭和12年11月10日、上海制圧を報ずる朝日新聞である。
『事変以来89日目』・・・・・これを逆算すると、1日目は8月13日となる。
つまり、第2次上海事件の起きた8月13日を以て支那事変勃発と、当時の国民は認識していたのだ。
続く
支那事変検証・その2・・・・・・・・・・・・・平成26年8月1日(金曜日)
通州事件とは…。
当時、通州には、日本人居留民380人とそれを護る日本軍がいて、さらに親日的部隊である冀東(きとう)保安隊もいた。
冀東保安隊とは、昭和10年、親日家の殷汝耕が南京政府から離脱して創設した冀東(きとう)防共自治政府の軍隊で、1万余の兵員が機関銃、大砲まで装備した戦闘力のある軍隊であった。
27日頃、デマを流すので有名な南京放送(中国国民政府の御用放送)が「盧溝橋で日本軍は29軍に惨敗した。29軍は偽都・通州を屠(ほふ)り、逆賊殷汝耕を血祭りにする」という、お得意のデマ放送を流したしたのである。
ウソを見抜く情報を持たない冀東保安隊はころりとだまされ、日本人虐殺を手土産に、29軍への寝返りを図ったのである。
おりしも通州の日本軍守備隊は、主力が南苑攻撃に向かい、留守部隊は憲兵や兵站(へいたん=補給部隊)などを合わせても110名ほどの微弱な兵力であった。
7月29日払暁、通州日本人居留区に冀東保安隊が襲いかかり、留守部隊を全滅させ、女性、子供を含む日本人居留民260人を虐殺したのである。
其の虐殺は、目を覆うばかりであったという。
東京裁判で弁護側は、同事件に関する外務省の公式声明を証拠として提出したが、ウエッブ裁判長はこれを却下した。
しかし虐殺現場を目撃した証人の宣誓口供書は受理された。そこから惨劇の一端を拾い出してみる。
当時、天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長で、7月28日の南苑戦闘に参加した後、30日午後通州に急行して邦人救援に当たった萱島高証人の証言は、次のとおりである。
「旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。」
中でも悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述は次の通り。
「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」
支那駐屯歩兵第2連隊小隊長として7月30日、連隊主力と共に救援に赴(おもむ)いた桜井文雄証人によれば、
「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここの埃箱(ゴミばこ)の中や壕(ごう)の中から続々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」
中国人が日本人を虐殺した数多くの事件の中でも、その凄惨なることで通州事件をしのぐものはない。
続く
支那事変検証・その1・・・・・・・・・・・・・平成26年7月31日(木曜日)
『歴史は、どこで区切るかによって、見方が違ってくる。』と、きのう書いた。
これは大東亜戦争だけではなく、支那事変にも言える。
Wikipediaによると、『支那事変は、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を発端として北支(北支那、現中国の華北地方)周辺へと拡大した。』とある。
しかし、はたしてそうなのか、もう一度検証してみたい。
盧溝橋事件というのは、昭和12(1937)年7月7日の真夜中に、北京の南を流れる盧溝河に架かる橋近くで夜間演習をしていた日本軍が、突然発砲を受けた、という事件である。
近くには、蒋介石率いる国民革命軍第29軍10万人がいたため、日本軍は、国民革命軍から攻撃を受けたと思ったのは自然である。
同時刻、国民革命軍も銃撃を受けている。国民革命軍も日本軍から攻撃されたと考えた。
しかし、実際は、日本軍は1発も撃っていない。
盧溝橋で夜間演習に参加した軍人の証言によると、当時の日本陸軍は、弾の扱いは極めて厳しく、空薬莢1つが無くなっても、大事件として扱われる。盧溝橋で渡された銃弾は箱に入っており、テープで幾重にも封印がしてあった。簡単に開けることなどできないし、指揮官も『弾込め』の指示などしていない。
反撃などできるわけがない。
この発砲が原因となり、小競り合いが起きたが、両軍ともどうも腑に落ちない。
どちらも戦いなど望んではいなかったので、5日後には停戦協定が結ばれた。
日本政府の方針も『戦闘不拡大』とし、内地からの派兵はしていない。ただ、現地の治安維持を図り、邦人を保護するため、既に支那に派遣してあった兵を北支へ移動する指示を出しただけである。
よって、この事件は支那事変勃発の原因とは言い難い。5日後の停戦協定で、1件落着したのである。
後日判明したところによると、支那共産党が闇にまぎれて両軍の間に入り込み、両軍に対して発砲したことが明るみに出た。これは支那共産党が、日本軍と国民党とを戦わせるための謀略だったということである。
日本軍と国民党とをなんとしても戦わせて漁夫の利を得たい支那共産党は、ここで戦火がおさまってしまっては困る。
そこでいろいろな手を打ってきた。
同年7月25日には、北京郊外の廊坊駅で通信施設修理をしていた日本軍を支那兵が襲った。(廊坊事件)
翌26日には、日本軍の大隊が北京広安門を通過中門が閉められ、2分された部隊に対し、手榴弾、機関銃による攻撃がなされた。(広安門事件)
7月29日には、日本人として忘れてはならない通州事件が起こったのである。
続く
歴史の区切り。・・・・・・・・・・・・・平成26年7月30日(水曜日)
歴史は、どこで区切るかによって、見方が違ってくる。
忠臣蔵だって、討ち入りの場面から芝居が始まれば、単なる押し込み強盗だ。
浅野匠の守が勅使接待役に任命され、上司吉良上野介から『この田舎侍め。芋侍め』といわれているところから始まってこそ『よくやった』と、拍手喝さいとなるのだ。
大東亜戦争を知るためには、日露戦争に続く三国干渉を知らねばならないし、日露戦争を知るためには日清戦争を知らねばならない。さらには、明治維新を知らなければ、日清戦争は分からない。
そもそも、『尊王攘夷』を旗印に明治維新を勝ち取った新政府が、なぜころりと開国をしたかだ。それは『攘夷』をするには、その前に『富国強兵』という峠を越える必要があったからだ。
峠を越える道筋にも、さらなる障害があった。それを乗り越えるためには、日清日露の戦いをせざるを得なかった。
いよいよ攘夷のときは来た。それが大東亜戦争なのだ。
そもそも、日本は、フィリピン国と戦ったこともないし、インドネシア国とも戦ったことはない。
戦ったのは、アメリカ領フィリピンにおいて、フィリピン人とともにアメリカと戦ったのであり、フランス領インドシナ半島において、マレーシア人とともにフランスと戦ったのだ。
大切なことだからもう一度書く。日本は、フィリピンとも、インドネシアとも、ビルマとも、シンガポールとも戦ってはいない。
アジアを侵略している白人諸国に対し、攘夷を行ったのだ。
其の視点を見落としてはならない。
松島悠佐閣下の講演は、素晴らしかった。・・・平成26年7月29日(火曜日)
平成26年7月27日、新潟会館において、新潟支部の総会が開催された。
事業報告、決算報告、監査結果報告と進み、平成26年度の計画も異議なく了承された。
続いては、待ちに待った講演会だ。
講師は松島悠佐閣下。
閣下は、阪神淡路大震災の災害派遣指揮官として卓越した指揮を執ったことで知られる。
元中部方面総監といういかめしい肩書にもかかわらず、温厚で気さくな方である。
演題は、『安全保障からみた憲法改正』
『現憲法の一番の問題点は、緊急事態(外敵の侵入・内乱・災害)についてどう対応するかの規定がない。つまり、緊急事態に対応できないということだ。
緊急事態になれば、当然一時的に個人の権利は制限されることになるが、それが謳ってない。
確かに自衛隊が何をするかは自衛隊法でうたってあるが、国民がどうしなければならないかが謳ってないから、何かあれば自衛隊がやればいいということになり、それが平和ボケの元凶となっている』と、熱く語られた。
そんな憲法を後生大事に守っている日本であるから、同胞が乗っている船が攻撃されたら守って当たり前、日本の船が通るところに機雷が敷設されたら、除去して当たり前、そんな当たり前のことが議論の対象になってしまうのだ。
自国を守れない憲法は、早急に改正しなければ、我が国の未来が危ないと、強く感じた講演であった。
講演をされる松島悠佐閣下
新潟戦争、色部長門、かく戦かえり。その2・・・・・・平成26年7月28日(月曜日)
色部長門(いろべながと)と新潟戦争
江戸時代末期の新潟は、幕府直轄地であった。
江戸幕府が征夷大将軍の地位を朝廷にお返ししてからは、新潟の治安を守るシステムが無くなり、無政府状態となった。
また新潟は、奥羽列藩の中心的存在の会津藩と阿賀野川で結ばれた補給基地でもあり、戊辰戦争を戦う東西両軍にとって戦略的に重要な位置にあった。
奥羽列藩は、新潟の治安維持を図るとともに、補給基地確保のため、各藩それぞれ藩兵を派遣し、600の兵を以て守りを固めていた。新潟守備隊の総督が米沢藩士色部長門である。
慶応4年(1868年)7月25日、黒田清隆を指揮官とする西軍上陸部隊1,200名が太夫浜(新潟市北区)に上陸、26日に作戦行動を起こし、半分は北上して新発田に向かい、半分は南下し新潟に攻め入った。
新発田藩は戦わずして無血開城したが、新潟は大激戦となった。
木崎付近から阿賀野川を押し渡って本所に上陸した西軍は、先ず上木戸付近で東軍を破り、信濃川を挟んでの激闘、2日に渡った。
29日の払暁、出来島付近から信濃川を渡った東軍は、関屋念仏寺附近に集結駐屯した。
色部長門は戦い利あらずと見て退却を決意、藩兵を解散し、帰藩せしめようとしたが、関屋付近で西軍と遭遇。激戦が展開された。
色部長門は、全軍を指揮し戦ったが、衆寡敵せず敗れ、色部長門は戦没した。
実に同年7月29日であった。
一説によると、ほとんどの藩兵を帰藩させたのち、敗戦の責任をとって少数の手勢を引き連れ敵主力に切り込んだとも言う。
また、色部長門は、敵弾に倒れたとも、敗戦を悟り切腹したとも伝えられるが、実のところは不明である。
その首は村の念仏寺に、身体は新潟町の光林寺に葬られたと伝えられる。
戦いののちの新潟には、東軍西軍の死骸が散乱していた。西軍は、西軍の戦死者は弔ったものの、東軍の戦死者は賊軍であるということで、弔うことを禁止した。
仕方なく、単に埋めたり、墓碑を立てても「将軍塚」「官軍塚」などという名目で東軍の戦死者であることを秘匿したまま慰霊した。
現在の戊辰霊園(新潟県護国神社内)は、故小山種三郎氏の尽力で、西軍の碑と並んで東軍の碑を建て、東軍西軍の別なく慰霊祭が行われている。
西軍の戦死者に高鍋藩の藩士が少なくない。高鍋藩は米沢藩主上杉家の養子鷹山の実家である。
鷹山が養子として上杉家に入って後100年にして、敵味方となって戦ったのは、歴史の皮肉と言えようか。
戊辰の役 祈念の碑
新潟市東区はなみずきのさくら公園内にある。
色部長門君追念碑
新潟市中央区関屋下川原2丁目戊辰公園内にある。
新潟戦争、色部長門、かく戦かえり。・・・・・・・・平成26年7月26日(土曜日)
行事が重なり、ちょっとさぼっている間に、1週間が過ぎてしまった。
その間に、毎年恒例の『戊辰霊園の草取り』があった。
新潟県護国神社の一角に、『戊辰霊園』という霊園がある。
日本を2つに分けて戦った戊辰戦争の戦死者を弔う施設だ。
そこには、『西軍の碑』と『東軍の碑』が、並んで立っている。
慰霊祭も、薩摩や長州からの参加者と、会津からの参加者とが、合同で執り行う。
7月20日には、戊辰霊園維持管理のため、草刈りを行った。
30人ほどの有志が集まり、きれいに草を刈り、護国神社にて、昇殿参拝をした。
戊辰戦争当時は敵味方であったが、それからすでに150年、両方とも日本のためを思って戦ったのだ。そろそろ憎しみから離れ、お互いを認め合ってもいいのではないだろうか。
会津戦争や函館五稜郭の戦いに比べ、あまり知られていない新潟戦争について、明日は書いてみたい。
護衛艦はまぎり、新潟港に港。・・・・・・・・・・・・・・・平成26年7月19日(土曜日)
7月18日には、護衛艦はまぎりが入港。
歓迎パーティに出席。
はまぎりは、海上自衛隊の中でも、インド洋派遣等、屈指の戦歴を誇る優秀な艦だ。
所属は大湊地方隊。
大湊は、私も長く勤務したところで、懐かしい。とは言ってももう40年も前のこと。ずいぶん変わっていることだろう。
歓迎パーティの出席者先任伍長は、横須賀教育隊出身とのことで、久しぶりに『横須賀教育隊歌』を一緒に歌っちゃった。
(松も緑に武山は、尚武のゆかり新たなる、海の防人たらんとて…)
懐かしくも楽しいひと時でした。
写真を添付します。
雄々しき雄姿。
艫の軍艦旗もりりしく・・・・・。
パーティのひとこま。
はまぎりからは、答礼の電灯艦飾。
共に戦うか、滅びるか。・・・・・・・・・・・・・・・平成26年7月16日(水曜日)
そうだ。坐して滅びるぐらいなら戦え。
戦わずして滅びるのはごめんだ。
不義を駆逐し、正義と自由勝ち取るために、共に起とう。
そして、勝つのだ。
コンビニで前売り券を買う必要はない。選挙の投票権の行使で十分だ。
今日は、ちょっとギャグってみました。(笑
今日は新潟西港山の下埠頭に『はまぎり』入港。
・・・・・・・歓迎・・・・・・・・
昨日の続き。・・・・・・・・・・・・・・・平成26年7月16日(水曜日)
たとえば、マラッカ海峡に海賊が跋扈したとします。
日本は、通商路であるシーレーン確保のため、マラッカ海峡に護衛艦を出動させるでしょう。
地元のシンガポール沿岸警備隊も当然出動するでしょうし、インドネシヤやマレーシアの海軍も遊弋するかもしれない。
日本のタンカーを護衛して航行中の護衛艦の目の前で、他国の軍艦と海賊が銃撃戦を始めた。
今までは、護衛艦かタンカーに弾が飛んでこないうちは日本の護衛艦は海賊に攻撃をかけることはできなかった。
これからはできるように、法整備をするというのが、今日現在の状況です。
どうやって海賊であることを確認するか、援護攻撃をする前に、その国との合意(共同防衛条約のようなもの)が必要なのか必要でないのか、その辺は、法改正がまだですから、なんとも言えません。
このようなシュミレーションの中に、『アメリカ』は全く出てきません。
また別なシュミレーションでは、フィリピンに政変が起きて反日親中国政権ができたとします。そのフィリピンが南シナ海で日本のタンカーを攻撃し始めたとします。
そのようなことが起きれば、日本のタンカーを守るために、アメリカと手を結ぶこともありうるでしょう。
このような場合は、フィリピンが、日米共通の敵ということになるでしょう。
国際情勢は流動的ですから、○○国は敵、××国は味方などと、固定して考えてはいけないのです。条約を結んでいても、突然破棄されることも視野に入れておかなければならないのが、国際関係なのです。
アメリカだけが同盟国ではない。・・・・・・・・・・平成26年7月15日(火曜日)
同じことを2回も書いたのは、重要なことであると同時に、ある動画サイトが見つからなかったからでもあります。
というのは、新聞も必死で安倍たたきをやっていますが、ネット上でも『突っ込みどころ満載』の動画を見つけました。
それに『突っ込み』を入れようと思って探したのですが見つからず、正確に内容をとらえられません。
記憶に頼りつつ、書いてみます。
その動画サイトはこう言っています。
『集団的自衛権とは、アメリカが敵として攻撃対象にした国は、自動的に日本の敵になるということだ。
たとえて言うと、AさんとBさんが一緒に歩いているところに、いきなりCさんがやってきて、Bさんに殴り掛かってきた。その時、無条件にAさんはBさんとともにCさんと戦うということを意味する。
自分ならまず仲裁し、Cさんになぜ殴り掛かったかを聞く。もし、Bさんが殴られても仕方がないことをしていたのであれば、Bさんに謝らせる。それが真の友情ということだ』
たとえの部分は、素晴らしいですね。私も大賛成です。
しかし、集団的自衛権のたとえとしては、全く的外れです。
だれか、『日本が集団を組む相手はアメリカだけだ』なんて言いましたか。
言わないどころか、先日オーストラリアでの安倍総理の演説では『多くの国と、いろいろな局面で一緒に行動できるように安全保障体制を整備しています』と述べています。
つまり、『アジアの安全のためでしたら、時と場合によって、あらゆる国と連合軍を組む用意がありますよ。集団的自衛権容認は、アメリカのためではないのですよ』ということを、オーストラリアという敵の少ない国から世界に向けて発信しているのです。
ましてや、自動的にアメリカ軍の一部に組み込まれることなど、全くないのです。
まさに、先出のAさん、Bさん、Cさんの例え通りの国になろうとしているのです。
再度、同じことを書く。・・・・・・・・・・・・・平成26年7月14日(月曜日)
同じことを書くのは、私がぼけ老人になったからではありません。
重要なことだからです。
憲法第9条は、70年近く前からありました。
にもかかわらず日本を侵略しようとたくらむ国はありました。実際に占領されている領土もあります。侵略する能力がなくとも『侵略するぞ』と脅しをかける国もありました。
領空侵犯をしようとする軍用機に警告を発し、領空を守ってきたのは9条ではなく、スクランブル発進をした航空自衛隊の戦闘機です。
この事実を無視して、『9条が平和を守ってきた』とは、どこを見て言っているのだろう。
『9条が平和を守ってきた』『戦争できる国にするのはけしからん』というのは、国民から現実から目をそらさせて、これらの日本侵略を企てる国を利する売国奴です。
我々国民は、目を覚まさなければなりません。目をさまして、売国奴を日本から駆逐しなくては、我々の子供や孫たちの平和はないのです。
子孫を奴隷にしてはならない、これが私の願いです。
国民の生命財産を守るには、軍備が不可欠・・・・・・・平成26年7月10日(木曜日)
昭和29年(1954年)8月23日、海上保安庁の巡視船「おき」が日本の領土竹島に接近しました。
ところが、竹島に不法上陸していた韓国軍から約400発の機関銃掃射を受け、日本へ逃げ帰ったのです。
その後、数百人の日本人が韓国に拿捕され、そのうち44人は、殺されたり、けがを負わされたのです。
これは、憲法第9条の制約で、巡視船が応戦できなかったからです。
北海道に向かってソ連の戦闘機が年に200回以上向かってきていました。航空自衛隊はそのたびごとにスクランブルをかけ、無線による警告を発するとともに、機銃による警告射撃をしました。
それによって、日本の領空は、ソ連の戦闘機から守られていたのです。
あの時、警告射撃をせず、『憲法第9条』と書いた旗をあげたら、ソ連の戦闘機は帰ったでしょうか。
今は、中国機に対するスクランブルの回数のほうが、はるかに多くなっているらしいです。
それでも今現在、尖閣諸島に支那が上陸しないのは、海上保安庁が守ってくれているからであり、その背後には自衛隊、さらに米軍がいるからです。
9条派は、巡視船を下げて『憲法第9条』の旗を掲げておけば、支那は尖閣上陸を遠慮するとでもいうのでしょうか。
尖閣どころか、沖縄にまで上陸してくるでしょう。
そして多くの日本人が、チベットやウイグルのごとく、虐殺されることになるでしょう。
憲法第9条は、70年高く前からありました。
でも、実際に侵略されている領土もあり、侵略しようとしている国もあるじゃないですか。
そのような国から日本を守っているのは自衛隊という武装集団なのです。
この現実を無視して、憲法第9条があれば侵略されないという理屈がわかりません。
引いてはならない、負けてはならない、それが国際関係のおきてなのです。
丹羽宇一朗はくるってる。・・・・・・・・・・・・・平成26年7月8日(火曜日)
最近新聞を読むのが楽しみだ。
なぜかというと、どこもかしこも安倍たたきに血道をあげている。
その内容がまた、突っ込みどころ満載である。
どう突っ込むか考えるのは、私の頭の中で漠然としていたものを、整理しなおすことである。
『頭の中にある部品をどう組み立てなおすのか』ということであり、クイズを解くごとく、頭の体操になる。
中でも突っ込みどころの多かったのは、元中国大使の丹羽宇一郎。
私は新潟日報で見たのだが、同文があちこちの新聞に載ったようだ。
これに対し、私なりの突っ込みを入れてみる。
青字は宇一朗の文、黒字は私のコメント。
『日本は先の戦争の反省を踏まえて憲法を作りました。』
作ったのではない。マッカーサーに押しつけられたのだ。
日本は、憲法を変える気はなかった。しかし、マッカーサーの命令でやむなく2案を作って提示したが、2案とも蹴られ、マッカーサー(GHQ)が英語で作って押しつけたのだ。こいつはそんなことも知らんのか。
『集団的自衛権の行使容認は米国の求めに応じて自衛隊が他国に攻め入り、その国の人の命を奪うこと。日本が人殺しの国になるということです。』
人を殺すのではない。日本人の命を守るだけのことだ。
『安倍政権は国民としっかり対話したのか。国民を蚊帳の外に置き…』
十分でしょう。国民1億2千万人と一人づつ対話できるはずもない。代議員制民主主義とはこういうことです。いやなら国の体制を直接民主主義に変える努力をしなさい。
もっとも国民の大多数の意見(世論)が正しいとは限らないが・・・・。
『中国だって無人島を領有するために攻撃するとは考えられない。』
あんたは、新聞もテレビもネットもみないの?
南シナ海の状況も、チベット、ウィグルの状況も知らないと見える。
『安全保障は軍事力だけでは実現しない。中国の覇権主義については東南アジア諸国連合(ASEAN)などさまざまな国が集まる場で解決の道を探るといった、外交での努力が必要です。』
ほぉ、中国の覇権主義を認めるのですね。
安全保障は軍事力だけなんて、誰も言っていませんよ。
軍事力も、外交努力も…と、言っているのです。
『かつて侵略された中国や韓国は、やはり日本は反省していないと受け止めるでしょう。』
反省しなければならないことなどありません。百歩譲って反省するにしても、靖国神社参拝や、今回の閣議決定とは、何の関係もありません。
本気で反省しなければならないのは、「なぜ負けたのか。今度負けないようにするにはどうすればいいか」です。
昭和20年8月以降の抑留という拉致、満州からの引揚者の悲惨さをこそ、「敗戦国の悲惨さ」として語り継げ。
『両国と友好関係を築くためにトップ同士が胸襟を開くべきなのに、安倍総理がやっていることはそれに逆行する。』
トップ会談を拒否しているのは中韓です。
安倍総理に言うな。中韓に言え。
一色氏のブログより・・・・・・・・・・・・・・平成26年7月6日(日曜日)
今日は、私が書くのはお休みして、一色氏のブログからの転載です。
私の駄文より、はるかに単純明快で、よくわかります。
一色 正春
7月3日 7:33 •
集団的自衛権は絶対行使させないと息巻いている人たち。
それは誰のためにですか?自国を守る権利を行使させないことは、日本を狙う侵略者を利することに他なりません。
自分たちだけが戦争の悲惨さを知り、自分たちだけが戦争を止めることができると思っているのでしょうか?ならばウイグル、チベット、モンゴルに行き虐殺を辞めさせ、北朝鮮に行き拉致被害者を取り返し、南シナ海や東シナ海で中国船の乱暴狼藉を辞めさせてください。それが、戦争を起こさせない具体的な方法です。
自衛官の名誉を、どう守る?・・・・・・・・・・・・・・平成26年7月5日(土曜日)
3日前、姉妹版HP『万景峰号の入港を阻止する会』のコーヒールームに、私が『元海上自衛官』の立場として書いたのは、次の通りだ。
・・・・・・・・引用初め・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼ら自衛官は何に忠誠を誓って戦うのか。
戦死したら、その名誉をだれがどう守ってくれるのか。
全くあやふやです。
自衛官は皆、『宣誓』をしています。
宣誓にいわく、『私は我が国の平和と安全を守る自衛隊の責務を自覚し、一致団結厳正な規律を保持し、・・・・・・・・事に臨んでは危険を顧みず身を以て責務の完遂に努め、以て国民の負託にこたえることを誓います』
誰に対して宣誓をしているのか。国民ですか。そんな漠然としたものに忠誠を誓えるのですか。NOです。
自衛隊の最高指揮官は内閣総理大臣です。時の総理が管や鳩山であったら、こんなやつらに忠誠を誓えるのか。NOです。
戦死したら靖国神社に祭ってもらえるのか。?です。
靖国神社に祭ってもらいたい気持ちが半分、天皇陛下も総理も参拝してくれないような靖国神社などに祭られたくないのも半分、彼らの名誉顕彰する手立てはないのです。
それでも「死をかけて戦え」と、誰が言えるのですか。
誰も言わなくとも「死をかけて戦います」と言っているのが自衛官なのです。
「税金泥棒とか暴力装置などという人でも、日本人であれば守ります」と言っているのが自衛官なのです。
なんと悲しく、なんと気高い国なのでしょう。
明後日は隊友会新潟県支部の総会です。元自衛官、今民間人である隊友会の責務は重いと考えています。
・・・・・・・・引用終わり・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日が、隊友会新潟県支部の総会の当日であった。
総会の後、参議院議員宇都隆史氏の講演があった。
その講演にいわく。『これから集団的自衛権容認の閣議決定を受け、法整備をしなくてはならない。それが整うまでは、自衛隊は今のままだ』
全くその通りだ。自衛隊は閣議決定で動くのではなく、法律によって動くのだから…。
彼によると、安倍内閣の任期中には、それで手いっぱい、憲法改正まで手が届かないらしい。
でも、その後の懇親会で、上記(引用)の件について話し、賛同をいただいた。
『現職自衛官では、こんな意見を述べられないとこは当然です。民間人ではわからないでしょう。これを言えるのは、元自衛官、今民間人である我々です』とも付け加えておいた。
元自衛官である宇都氏は、この意味するところをすぐ理解してくれた。
また、会員数人にも披瀝し、強い賛同を得た。
私のこの意見の意味がわかってもらえるのは、元自衛官であり、今民間人である我々隊友会員だけなのであろうか。
いい道具を持て・・・・・・・・・・・・・・平成26年7月3日(木曜日)
どんな腕のいい大工でも、のこぎりという道具がなければ、垂木1本切ることはできません。
我々国民の生命財産を守るための組織である国家も、さまざまな道具を使ってその責務を全うできるのです。
国家の道具とは、司法・行政・立法という権能であり、官僚組織であり、また、国内治安を維持するための警察や海上保安庁であり、外国からの侵略を阻止するための軍隊です。
大工ののこぎりがなまくらであってはならないように、軍隊も使い物にならないような組織であってはなりません。
今回の憲法解釈変更による「集団的自衛権」容認は、なまくらだった道具に焼きを入れることです。
万全とはいえませんが、一歩前進であるといえましょう。
万全にするには、憲法改正が何としても必要です。
自衛隊を防衛軍とし軍法を整備するとともに、自衛官の忠誠の対象の明確化、万一殉職した時の名誉を守る手段、これらは、はっきりさせなくてはなりません。
これらを実行するには、憲法を改正するしかないのです。
今日は、記念すべき日。・・・・・・・・・・・・・・平成26年7月1日(火曜日)
ばんざーい
やっと日本は戦争のできる国に一歩近づいた。
これで我々国民の生命財産は守られる。
さあ、次は憲法改正だ。
おれは天下の変節漢・・・・・・・・・・・・・・平成26年6月27日(金曜日)
私は、よくいえば順応性があり、悪く言うと信念がない人間です。
どういうことかといいますと、心で納得できる説明があれば、右でも左でも、ころころ変われるのです。
まさに変節漢です。
ところで、『9条があるから、日本は守られてきた』とか『何があっても戦争してはいけない』とか『悲惨な戦争を語り継ごう』とか・・・・、このような表現を好んで使う方々がいますね。
私はこのような方々を『9条派』と呼んでいるのですが…、その方々の意見を聞いた時、一度も『あぁ、そうなのかぁ。目からうろこが落ちた』というような、心で納得できたことは1度もありません。
中学生か高校生のころから一度も…です。この60年近くの間、1度も…です。
本当に、1度も…です。
それに比べて、田母神さん、佐藤正久さん、西村信吾さん・・・これらの方々の話を聞いたときは、何の違和感もなく心の中にストンと収まるのです。
赤旗新聞では、このような方々を『靖国派』というらしいですが…、私も靖国派の一人でしょう。
『9条派』の方々、『靖国派』の方々、両方の方々のおかげで、中学生のころか、高校生のころからかは忘れましたが、ずっと変節する必要なく今に至っています。
『昨日勤皇、明日は佐幕、どうせおいらは裏切り者よ』という生き方をしないで済んでいます。
『9条派』と『靖国派』、両方のおかげです。ありがとう。ワハハハハ
安倍さんは偉い・・・・・・・・・・・・・・平成26年6月26日(木曜日)
私は常日頃、安倍総理を信頼し、尊敬し、日本の舵取り役として期待しているものです。
今回、その感をさらに強くしました。
と言いますのは、いわゆる『河野談話』の見直しの件です。
私は、安倍総理が『河野談話を継承する』といったときは、『さすがの安倍総理も、総理になったら風見鶏にならざるを得ないのか』と、きわめてがっかりしました。
しかし、実はそうではなかったのです。
6月20日、菅官房長官の記者会見を見て、『さすが、われらの安倍総理!!!!』と思いました。
なぜ、そう思ったかについて書きます。
まず、河野談話を破棄する(見直す、新しい談話を出すも同じ)ということは、国家として前言を翻すことらなり、日本の信用が落ちます。ましてや相手国のあること、勝手に破棄などすれば、南朝鮮のクネクネばばぁに『日本は、信義のない、信用できない国だ』といわれる口実を与えてしまうことになります。
そこで彼は、『河野談話は継承する』としつつ、『検証する』つまり、その談話の出た、いわば裏話を公表したのです。
この『検証』によって、河野談話は日本が自主的に出したものではなく、韓国の要望によって政治的文書として出されたものであること、この談話を出すことによって、韓国は、すべての懸案事項の解決したことをみとめ、『この件については今後一切の要求をしない』という約束があったこと、慰安婦募集に関して、『軍の関与、強制』を示す証拠は一つもないこと、よって日本は以前から、強制があったとは考えておらず、この談話にも『軍の強制』いう表現は使っていないこと、日本が提示した原文の『軍の意向…』という文言も韓国の意見を受け入れて『軍の要請…』に書き替えたこと、を白日の下らさらしたのです。
つまり、この談話は事実を書いたものではなく、韓国の要請によって書かされた『政治的文書』であることと、それを書くことに寄る裏約束を韓国は勝手に破った、うそつき国家であることが明白となりました。
この『検証』は、河野談話を空洞化しただけではありません。
河野談話を破棄したり、新しい談話を出したりするだけであれば、必ずや韓国は『日本は歴史的事実を隠ぺいしようとしている』と言い出し、諸外国からは、『日本と韓国の泥試合』と見られる恐れがありました。
『韓国のほうが約束を破った張本人、うそつき国家である』ことを明らかにすることにより、予想される韓国の反撃すら、事前に封殺したのです。
なんという安倍総理の深謀遠慮でしょう。
彼が日本の舵取りをしてくれている間は、日本は安泰です。
安倍総理、有難う。安倍総理、万歳。
ちょっと、お休み・・・・・・・・・・・・・・平成26年6月25日(水曜日)
今日は、ちょっとお休みして、こちらを楽しんでください。
Kの法則は恐ろしいですね。
見るな! 触るな 近寄るな
http://www.youtube.com/watch?v=MAuDAIt4nzQ&index=2&list=UUyWrZ3uHnN4izMD_xlwNJVQ
http://www.youtube.com/watch?v=OAZ8RJVfUI8&index=25&list=UUyWrZ3uHnN4izMD_xlwNJVQ
ありがたや・・・・・・・・・・・・・・平成26年6月23日(月曜日)
日本の現状は、
『諸外国(日本以外の国)の人は、みんないい人だから日本を攻撃したりしない。だから日本は憲法9条で戦争を放棄した。もし何かあったら、日米安保条約があるから米国は日本を守って呉れる』・・・ということになっています。
これは、国家の職務放棄です。
日本近隣において照準を日本にあわせたミサイルが配備されている国が存在する以上、これに対処する事が出来るようにするのが国の努めではないのでしょうか。
『平和を愛する諸国民』など、少なくとも日本近隣にはいないという現実を直視すべきです。
社民党や9条の会などは、国民みんなで『キュージョー』と言ったら、ミサイルの弾道が変わると言っていることと同じです。いや『アブダカタブラァー』のほうがいいんじゃないかな。
どちらにしても、なんとありがたいことか。
ああ、ありがたや、ありがたや。
どんな道具も、持つ人の心によって、良くも悪くもなる。・・・・・・・・・・・・平成26年6月22日(日曜日)
一本のナイフがあったとする。
このナイフで、愛する人にリンゴをむいてあげることもできる。
強盗することもできる。
私は、針金一本で鍵を開けることができる。(警察には内緒です)
だから、泥棒になることもできるが、泥棒をしたことはない。鍵を開けることによって人助けをしたことはある。(末尾の※を参照)
ナイフも、技術という道具も、いい人が持てばいい道具になり、悪い人が持てば悪い道具になる。
生きるための道具であるお金も、いい人が持てば、困っている人を助けることができるが、悪い人が持てば、人を苦しめるもととなる。
国家の道具である権力・権限も、軍隊という武力も、いい国(いい政府と言い換えてもいい)が持てば国民のためになり、悪い国が持てば、国民を苦しめる。
道具は、単なる『もの』でしかない。それをいい道具にするか、悪い道具にするかは、持つ人の心で決まる。
果物ナイフしかない人は、リンゴをむくしかできないが、菜切り包丁、出刃包丁、柳刃、刺身包丁など、いろいろ持っていれば、料理の幅が広がる。
100万円で救えない人も、1000万円持っていれば救えるかもしれない。
道具は数多く持っていたほうがいい。
国にも、いろいろな道具をいっぱい持ってもらいましょう。
日本はいい人しかいない国なのです。いろいろな道具を数多く持って、それをいい方向で使える国なのです。
日本人なのですから、日本を信じましょうよ。日本人が日本を信じなくて、誰が信じてくれるのですか。
※一度は、あるお店でのこと。3歳か4歳の子供がトイレに入って鍵をかけた。用が済んで出ようとしたら鍵が壊れて閉じ込められてしまった。
私は、すばやく鍵を開けて、トイレの中で泣いている子供を出してあげました。
また、海外旅行に行った時、仲間の一人がトランクの鍵を無くしてしまい、トランクが開けられなくなって困っていました。またもや私の特技の出番です。
大変喜ばれました。
こんなことが何度かありました。
ただし、泥棒に入ったことや、勝手に人様のうちに侵入したことは一度もありません。(当り前ですが…)
戦争できる国にしよう。・・・・・・・・・・・平成26年6月20日(金曜日)
『戦争できるが、不必要に戦争しない国こそが理想国家だ』と書いたのは、6月12日のことであった。
こんな過激なことを書くのは私だけかと思っていたら、わが尊敬する田母神閣下も同じことを言っている。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140608/plc14060807000001-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140615/plc14061507000001-n1.htm
6月2日に東京・潮見のホテルで行われたアパグループの元谷外志雄代表による著書『誇れる祖国 日本復活への提言II』の出版発表会に出席した田母神閣下は、
「社民党の党首だった福島瑞穂さんなんかは『戦争できる国』にするんですかというわけですが、福島さん、実はその通りなんです。『戦争できる国』のほうが、戦争に巻き込まれないんです。」と語っている。
「いったん政治の世界に足を踏み入れた以上、カタギの世界には戻れない」と、新たに「日本真正保守党」を立ち上げることまで宣言したというから、なんと頼もしいことか。
そもそも『9条派』は、根本認識が間違っている。
『9条があるから、日本の平和が守られてきた』??????
100歩も、1,000歩も譲って、そうであったとしよう。しかし、今現在その平和がすでに崩れている。
今は『非常時』なのだ。敵国(政治家が言ったら大変なことになるが、民間人である私だから言える)が、日本への侵略意図を明確にし、実際に行動を起こしているではないか。
尖閣諸島を『平和で、なんの問題もない島である』という人がいたら、その人は頭がおかしい。
『・・・・守られてきた』という過去形ではなく、現在進行形と未来形で考える必要がある。それができないのが『左翼9条派』である。
よって、左翼は頭がおかしい、という3段論法で、今日はおしまい。
文化の継承、その3・・・・・・・・・・・・・平成26年6月17日(火曜日)
話しは変わるが動物のすべて、犬猫から黴菌の果てに至るまで…、生きている間は生殖活動を行う。生殖能力がなくなったら死ぬ。
それが生き物の鉄則だ。
しかし、人間だけは生殖能力がなくなっても、20年も30年も生きている。
この現象を、たんに天敵がいないから…という理由だけでかたずけてしまっていいのだろうか。
『長生きをするためにどうすればいいのかのノウハウものの本や、健康維持の方法を指導したりしている団体などのどこを見ても、『なぜ、長生きしなければならないのか』『長生きすべき必然性は何なのか』誰も教えてくれない。
『死にたくない』・・・それだけなのか。意味もなく馬齢を重ね、老害をばらまくだけならなんとさみしいことか。
何か意味があるのではないか。
誰も教えてくれないから、仕方がない、自分で考えた。その結果思いついた。
唯一天敵のいない生物人間は、『文化』だけが武器だ。『知識』『知恵』『知能』と言い換えてもいいのだが、それは一人の人間が考えるのではたかが知れている。
先人の知恵に、次の人が知恵を積み上げていく、それを繰り返す必要があるのだ。他の動物の親は、子供に餌の取り方を教えれば、それで十分。人間は、先人から習った知恵に、少しだけさらなる知恵を積み上げて後世に伝える、それができるのは、親ではなく、じいちゃんばあちゃんなのだ。
年寄りは、文化の伝え役という、偉大な使命を持って生きながらえているのだ。
あっしは69歳である。はたしてその役目を担えるか。それとも、たんに馬齢を重ねて、老害を撒き散らしつつ、徒食して死ぬか。
うぅん、自信がないが、がんばらなくっちゃ。
文化の継承、その2・・・・・・・・・・・・・平成26年6月16日(月曜日)
アフリカの奥地にすむ種族のひとつに、数の数え方が『1、2、3、いっぱい』しかない種族がいるという話を聞いたことがある。
この種族にとって、4以上は10でも100でも『いっぱい』で事足りるから、これでいいのだ。
先進国といわれる国々は、これでは用が足りない。だから、万、億、兆、京・・・・、あるいはキロ、メガ、ギガと、巨大な数まで利用している。
数え方や位どりなどは私が考え付いたものではないにもかかわらず、知っているし、使っている。なぜなら、小学校で習ったから…。
人類が長年かかって解いた『三平方の定理』は、私も知っている。なぜなら、中学校で習ったからだ。習って知っているから、それを利用して広い空き地に直角の線を引くことができる。
これを文化の継承という。
文化を継承するのは、学校だけではない。というより、学校は知識の一部を継承する手段にしかすぎず、多くの文化は親から子に、先輩から後輩に、社会の中で自然に伝えられていくものであろう。
日のあたる縁側で、おばあちゃんが着物のほころびを繕いながら、隣にいる孫に『いいかな。人が見てないと思って人の物を盗ったりすると、ちゃんとお天道様が見てるんだぞ』
『世間様に迷惑をかけるようなことをしちゃならんぞ』と教えたことこそ、文化の継承なのだ。
おじいちゃん、おばあちゃんが正しいことを教え続けてきたからこそ、日本は民度の高い国になったのだ。
ああ、ありがたき日本。ご先祖様、有難うございます。
文化の継承、その1・・・・・・・・・・・・・平成26年6月14日(土曜日)
蒸気機関を発明したのはワットという人だそうだ。
ワット少年が、沸騰したやかんのふたが持ち上がるのを見て、蒸気の力に気付いたという。
素晴らしい着目点だが、土器しかない時代にワットが生まれていたとしたら、彼は蒸気機関を発明できなかった。
彼の以前にやかんを作る技術を持った人がいて、ボイラーを作る鉄鋼技術があって、石炭を大量に得る技術があって、前後進する力を回転力に変える技術があって、・・・・その他もろもろの技術が確立されていたから、彼の着目点が蒸気機関として完成したのだ。
先輩からその時の技術を習いおぼえ、それに新しい工夫を上乗せして子孫に伝える。その子孫は、それにさらに新しい工夫を上乗せして、子孫に伝える。これを文化の継承という。
それが滞りなくなされてきたのが、日本だ。
だから、鉄砲が種子島に伝わった30年後には、日本は世界一の鉄砲所有国になってしまった。それは、長年培ってきた、鉄を扱う技術があったからだ。
鉄砲が伝わってから、あわてて製鉄技術から学んでいたのでは、こんなことはできない。
話変わって、私は職業は職人である。若いころ職人の道に入って覚えたことと、今の職人の技術はずいぶん変わってきている。
新しい材料ができ、新しい工法が生み出された。
その中には、鳴り物入りで登場した素材でも、すでに見向きもされず、滅びてしまった素材・工法もある。
一方、いい素材や工法は、さらに進化しつつ利用されている。
私自身も、新しい工夫を上乗せして後輩に伝えている。その工夫がいいものであれば、後輩はその工夫にさらにいい工夫を上乗せしてくれるであろうし、もっといい工夫があれば、私の工夫は葬り去られるであろう。
それが文化の継承というものだ。
『平和の礎』慰霊祭・・・・・・・・・平成26年6月14日(土曜日)
このブログ、昨日はちょっとさぼったが、実は新潟県護国神社の『平和の礎』慰霊祭に行ってきた。
神社内にあるのに神道形式でもない慰霊碑、ちょっと意味がよくわからないが、遺族会が主体となって建設し、慰霊祭も遺族会が行ってきた。
しかし、遺族は年々減り、今年の参加者は去年の3割減ではないだろうか。
そこで、慰霊祭参加者を増やすため、あちこちの会に動員を頼んでいる。
私は遺族会にも属しているので、遺族会に出席の返事を出していたが、直前になって、日本会議からも、隊友会からも「参加してほしい」との電話がきた。
来年はさらに参加者は減るのではないだろうか。遺族が減ってきているのだから、ある意味仕方がない。遺族だけが、慰霊碑を維持していこうということであれば、そのうちだれもいなくなる。
実際に、護国神社内にある『軍馬慰霊碑』『軍用件慰霊碑』『少飛会(少年飛行兵)慰霊碑』などは、維持母体がなくなっている。
心ある人が維持していくシステムにしなければならないとは思うが、具体的にどうすればいいのだろうか。わからない。
『戦争できる国』が、正しい国家のあり方・・・・・・平成26年6月12日(木曜日)
左翼売国奴は言う『日本を戦争できる国にするのはけしからん』と…。
それは違う。我々の祖先が勇敢にたたかったから、今の日本の平和と安全があるのですよ。
この日本の平和と安全を脅かす事態が発生したならば、戦わなくてはならないのです。
『戦争できるが、不必要に戦争しない国』それこそが理想国家ではないですか。
日本の将来を考えてください。
我々の子供や孫のことを考えてください。
子孫が安全に平和に暮らせる日本をどう作ればいいか、考えてください。
これから起こりうる、あらゆる可能性を考えれば、今日現在何事もないからといって、安全を守る手段まで放棄してしまってはいけないのです。
『今日現在何事もないからといって、』と書きましたが、尖閣の状況を見れば、今は『非常時』であることが分かるはずです。
現実に目を向けることをせず、机上の空論を振り回しているのが民主党の馬鹿どもです。
こんなやつらをのさばらせておいては、我々は殺されてしまいます。
あらゆる可能性に対応できる、あらゆる手段を準備しておくことが、国家の将来にとって、子供や孫の安全にとって、大切なことなのです。
国家は、命をかけて守るに値する機構・・・・・・平成26年6月11日(水曜日)
日本人は、忘れっぽい民族だという説がある。確かに私も余計なことは忘れようと思っているし、それ以前に覚えないようにしている。
しかし、忘れてならないこともある。
それは、昭和20年からの7年間だ。
その時何があったか。満州からの引揚者の多くは殺され、女性は強姦され、身ぐるみはがされ、子供を置き去りにせざるを得ない状況の中、裸同然な姿でやっと引き上げてきたではないか。
若い男は、『抑留』という名の拉致をされ、200万人が命を落とした。それでも日本は救出に行けなかった。
国家が国家として機能していなかったためだ。
今は、菊のご紋章の入ったパスポートを持って、世界中、どこにでも行け、その国の保護を受けられる。これは、日本という国家が、国家として機能しているからに他ならない。
なんとありがたいことか。
国家は、自分たちの生命財産を守ってくれる、重要な機構なのだ。だから国民は、命をかけて国家を守らなければならない。
重要なことだから、再度書く。国家は、国民が命をかけて守るに値する機構なのだ。
戦争体験を語り継ぐのであれば、『国家を失った時の国民の悲惨さ』も、語り継いでくれ。
このHPは、命がけで国家を守ろうとした方々(戦死された方、ご無事に帰還された方を含めて…)を顕彰しようとするものである。
北朝鮮による拉致の被害者を救出できないということは、日本はまだ国家としての機能を半分しか果たしていないということだ。
安倍さん、がんばって、日本を真の国家にしてくれ。
尊敬に値するベトナム・・・・・・・・・・・・・・・・平成26年6月10日(火曜日)
倉庫改装計画が進み始めるのは、早くて今年8月です。
進展があれば、適宜、報告させていただきます。
それまでは、思いつくことをさまざま書き散らしていきたいと思います。
日本民族大好き人間の私ですが、私は日本民族が世界一だとは思っていません。
日本民族よりすごい民族はいっぱいいます。
例えばベトナムです。
彼らは、日本が勝てなかったアメリカに勝ちました。それも、日本ができなかった本土決戦を、彼らは5年にわたって戦い抜いたのです。何とすごい民族でしょう。
彼らの戦術の中に、こんなことがあったそうです。
女の子が小銃を持って小屋の屋根に上がって待つそうです。
米軍の戦闘機(当時はファントム)がそれを見つけて機銃掃射をかける。
つまり、ファントムが一直線に、その女の子に向かってくるわけで、女の子からみると、ファントムは動かない標的に見えます。
女の子はファントムの機銃と相対し、小銃を発射する。小銃とはいえ、その弾がファントムのどこかに当たればファントムは落ちます。
たとえて言うと、歩と飛車の交換です。特攻隊の精神と何が違いますか。特攻精神そのものではないですか。
75年にわたるフランスの苛斂誅求にもめげず、彼らはベトナム人としての誇りを失わなかったからこそ、こんなことができたのです。
それに比べて、日本民族は何だ!!!!!!
たった7年のマッカーサー統治で骨抜きになってしまったではないか。しっかりしろ、日本。
私は、ベトナム人を尊敬する。
日本は、ベトナムやインドなど、素晴らしい民族と連帯すべきだ。
支那、朝鮮とは手を切れ。特に経済界の馬鹿ども、いい加減にせい。
いよいよ戦史資料館、建設か?・・・・・・・・・・・・・・・・平成26年6月9日(月曜日)
私は、日本会議の一員として、日本国憲法の改正条項に基づいた改憲(現憲法有効論)を推し進めるとともに、一方では現憲法無効論を主張するという、こうもりみたいな、二股膏薬みたいな、優柔不断な、だらしない、ダメな人間なのです。
でも、『戦ってくれたおじいちゃん、おじいちゃんを支えてくれたおばあちゃん、こんな立派な日本をありがとう。御恩は決して忘れません』の気持ちは本物です。
これは変わりません。
私にとって『戦史資料館』は、長期的最終目標、つまりライフワークなのです。
と言いながらも、4年以上もお休みしていたわけは、戦史資料館建設計画は、資金難から進展させることができず、一方で緊急性のある事案が発生してしまい、そちらに心がシフトしていたからです。
それが、なんでまた復活したかといいますと、ひょっとしたら進展させることができるかもしれない、そんな状況になってきたのです。
4年の月日は長いものです。
私も、仲間も4歳年をとりました。仲間の一人が、『もう仕事を続けられない。会社を閉鎖する』ということになりました。ということは、彼の持っている倉庫が空きます。
『おい、だったらそこを貸せよ。戦史資料館にしようじゃないか』
『ああ、そりゃいいことだ。自由に使ってくれ』
細部の詰めはまだですが、彼もこの活動に理解がある方ですので、いい方向に進むと思います。
『待てば海路の日和あり』とはよく言った。
現憲法は無効だ。・・・・・・・・・・・・・・・・平成26年6月8日(日曜日)
時は民主党政権下で、日本が溶けかかっていました。
しかし、総選挙が近い。何としても自民党政権に戻さなければなりません。
国民の思いが、平成24年12月26日に第2次安倍政権を誕生させました。
そうなると、喫急の課題は憲法改正です。
再度憲法を勉強しなおし、現憲法は無効であるという結論に至りました。
そこで作ったのは、『憲法無効の会』のHPです。
『憲法無効の会』は、こちらから・・・。
『憲法無効の会』の趣旨を簡単に言いますと、『日本国憲法は、大日本帝国憲法のもとに存在した占領基本法であった。法律の一つでしかない占領基本法に「・・・憲法」という名前を付けたから、話がややこしくなっている。これから作るべき新憲法は、真の憲法である大日本帝国憲法の改正条項に基づいて制定すべきだ』ということです 。
しかし、この理屈を全国民に納得させることは、きわめて難しい。
まさに『寄らしむべし。知らしむべからず』(納得させることはできても、理解させることは難しい)です。
これに固執していては憲法改正などおぼつきません。100年たっても無理でしょう。
ですからこの会は、憲法に関して安倍政権がやろうとしていること、つまり、憲法解釈見直しや、日本国憲法の改正条項に基づいた改憲に反対するものではありません。安倍さんがやろうとしていることに妥協、または補完するものです。
言葉を換えれば、何十年か後に『国民の一部には、こんな正論を主張していた人もいた』という、いわばアリバイ証明でしかないと思っています。
できないことをやろうとすることに意義があるのです。
尖閣島おこし計画、頓挫・・・・・・・・・・・・・・・・平成26年6月6日(金曜日)
4年前に何があったか。それは、尖閣問題です。
それまでもいろいろゴタゴタのあった尖閣諸島がキナ臭くなってきていました。
中山文雄氏(仮名)と『尖閣の実効支配のためにはどうすべきか』について議論を重ねていたところ、平成22年9月7日 中国漁船が保安庁の巡視船に衝突する事件が起き、同年11月4日、その映像が YouTube上に流出、全国民の知るところとなりました。
緊急を要すると判断した我々は、こんな計画を練りました。
『尖閣に漁民避難所を作るための確認申請を提出する。
確認申請が通ったら一晩で建物を建て、シナが気付いた時には建築が終わっているようにする。その後、私が管理人という名目で居住し、日本人が住んでいるという実績を作る。
確認申請が通らないときは、以前建っていた避難所(台風で飛んでしまって、今はない)や、灯台(海図にも載っている)の前例を元に、法廷闘争に持ち込む。
ただし、実行までは隠密裏に進める』として、予算まで準備しました。
ところが、平成24年4月16日 石原都知事が尖閣買い取り表明、これは隠密裏に進めている場合ではない』と感じた我々は、計画を公にすることにしました。そこで同年7月、『尖閣島おこしの会』としてHPを立ち上げました。
http://senkaku.sumera-ikusa.com/index.php
実際、その計画書は猪瀬副都知事(当時)を通して石原都知事(当時)の了解を得る直前までいっていたのです。
しかしなんと、平成24年9月、時の野田総理は、石原都知事(当時)を押しのけ、国有化してしまいました。
その後の動きから、この計画は頓挫してしまいました。
復活・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・平成26年6月5日(木曜日)
おやおや、気が付いてみたら、最後のカキコからすでに4年以上たってしまっていました。
『お久しぶりです』なんちゃって…。
分けあって、一時足踏みしていましたが、復活しました。
人間て(というよりは、私は…と書いたほうがいいのかな ?)、やりたいこと、やらなければならないことがいっぱいあります。
長、中期的な目標もあれば、とりあえずやらなければならない短期的目標もあります。
私にとって『戦史資料館』は、長期的最終目標、いわばライフワークです。
しかし、4年前(平成22年)に早急にやるべきことが起きてしまって、そちらに優先順序をシフトしていたのです。
何をやっていたか、明日から書きます。
なかなか書けなくて、ごめんなさい。・・・・・・・・・・・平成22年4月29日(木曜日)
その気がないわけじゃないんです。戦史資料館に進展がないと、その分、仕事が忙しくって、ついついってやつです。
この4月の軍歌軍装祭は、戦争博物館の艦長が足を痛めて、・・・つーか、もともと悪かった膝の手術をするので延期、そのうちに東日本大震災で、会場の九段会館は使えなくなってしまうし、いろいろあって、結局日本青年館にお願いすることになりました。
一応「良かった、良かった」ではありますが、館長も年ですので、新潟に軍歌祭の受け皿を作るべく、手を回しているところです。
ナントカ、火を消さない努力をしなくっちゃ・・。
軍歌軍装祭は楽しかったなぁ・・・・・・・・・・・・・・・平成22年4月29日(木曜日)
4月17日、九段会館での軍歌軍装祭。今回も行ってきましたよ。
これで後半年は生きられる。(笑
ほんとにこれに行かなくっちゃ、生きてる甲斐がない。
私だけじゃありません。そんな人が一杯来ています。ところが最近は、若い人が増えてきまして、いいことですね。
資料館ニュースに写真が載ってます。
すむべき世界・・・・・・・・・・・・・・・・・平成22年3月9日(火曜日)
パソコンの中を整理していたら、昔、書いたものが出てきた。
題して『すむべき世界』
そんなこともあったなあと、懐かしく読んだ。
皆様にも、お目通し頂ければ幸いです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 平成20年4月20日記
人間には『持って生まれた住むべき世界』があるのではないだろうか。
昨日(H20・4・19)、軍歌祭に行ってきた。
♪生きて還ると思うなよ、白木の箱が届いたら、でかした我が子天晴れと、お前を母は褒めてやる・・・・
どこにわが子の死を喜ぶ母がいようか。でもあの時代はそうしなければ国が滅びてしまうのである。わが子を死地に追いやってでも、国を護ることが先決であった。日本の母は、理不尽と思いつつもこの歌を歌って自分を説得しなければならなかった。心を鬼にして、『バンザイ』を言いつつわが子を戦地に送ったのである。
『だから平和を・・・』という人がいることは知っている。しかし、あの時代にすべての母がそれを言ったら、今の日本はないのである。私は、その理不尽さに耐えて、心を鬼にした多くの母たち、それに応えてにっこりと戦地に赴いた方たちに感謝せずには居れない。
話は変わるが、4月18日まで、いやでいやで仕方がない仕事をしていた。
いやなことを書き留めるのはいいことではないので、簡単に書く。
『儲け』だけが判断基準の世界にいたのである。
1月から4/18日まで間に見積もりだけでたぶん20日以上時間を費やしたであろう。最後の一週間はぴっちりとこの見積もりに時間を取られた。ほかのお客様の仕事は放り出したままだった。その結果はどうであったか。決まっても15万か20万円の利益、元請は150万円の利益、それはそれでいいのだが、『こうしたらいくらになる?』『ああやったらどれだけ安くなる?』
そのたびに頭の中でシュミレーションを繰り返しつつ、電卓を叩いて・・・。『やってらんない、降りたいなあ』と思っていたら、先方から切ってくれた。顔では残念そうに、心の中では万歳を叫んだ。
うちに帰って家内にこの話をした。『そんなごちゃごちゃした話はやってもろくなことはないよ。縁が切れてよかったね』
実際には、得であったか損になるかはわからない。しかし、3パーセント高いとか2パーセント安いとか、そんなことでガタガタと電卓をたたき続けるのはいやだ。そう、『いやだ』の一言に尽きる。
とにかく『ここは俺のいる世界じゃない』と思っていた。さわやかに仕事ができて、ちゃんと食っていけて、多少の利益が出ればいい。もともと、そんなに大儲けしたいわけではないのだ。
理屈じゃない。DNAといったら言いのだろうか。
その翌日が『軍歌祭』だった。ここはなんと居心地がいいのだろうか。俺の住む世界だ。何の違和感もなく、スポッと入り込める。何度涙を必死で抑えたことだろう。
終わってから仲間5人と飲みながら歓談。意見が合ったり異論が出たり、喧々諤々・・・。それでも話がかみ合う。とにかく楽しいのだ。
世の中、利益が出なければ戦争博物館も作れない。それはわかる。しかし、利益追求しか物事の判断基準のない世界は、なんと居心地が悪いのだろう。まるで心の中に針の塊を抱えているような一週間だった。
人には『持って生まれた住むべき世界』があると感じた昨日であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日は、午後から雨・・・・・・・・・・・・・・・・・平成22年3月1日
言い訳の続きです。
先回の軍歌軍装祭の報告ができなかったのは、カメラの電池が切れてしまい、撮影ができなかったのです。
写真がないと、報告も、なんとも様にならないものでして・・ハイ。
『言い訳しても、イイワケないよ』なんて言いつつ、笑ってごまかす。(私の得意技)
次回は、電池を満タンにしていきます。
久しぶりに・・・・・・・・・・・・・・・・・平成22年2月27日
『日々、更新しています。』なんていいながら、ちょっとサボっているまに半年が過ぎてしまいました。ごめんなさい。m(-.-;)m
言い訳は、100でも200でも思いつきますが、そんなことを書いても意味がないよね。プライベートなことで、いろいろありました、とだけ書いておきます。
どちらにしても、残念ながらこの半年間、戦史資料館は休眠状態でした。でも、春から違った動きが出てきそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・書いていて思ったのですが、どうも奥歯に物の挟まったような書き方だなあ、って・・・
思い切ってもう少し具体的に書こうか。
私、仕事は看板屋をやっているのですが、昨年〈平成21年〉の7月、140万円払わないやつがいたのです。
私、貧乏人ですので、それがないと食べていけない、ということは、戦史資料館も計画が立たない、それで書いてみようがなかったのです。
そこで訴訟を起こし、裁判で争っていました。やっと先日、半分ぐらい取れることで結審しまして、気持ちの落ち着いたところです。
さあ、春も来る。気持ちを新たに、明日の希望に向かって進むか。
天徳舎訪問記・・・・・・・・・・・・・・・・・平成21年8月21日
何人かの人には、『15日、16日と天徳舎にいってくる』と予告した。行ってきました。
でも、どう書こうかまとまらないまま、一週間がたとうとしている。
何か書かなくっちゃ、そんな強迫観念でキーボードに向かっている。
15日、お盆の中、混雑した高速道路を走って甲府に向かった。出発から6時間、天徳舎に着いた。その日はアポもとっていなかったので、参拝だけして退去。印象としては、広大な青木が原の一隅に位置する、寂しい神社だ。でも、献饌品などはちゃんと調えられ、きちっと神事が執り行われていることが分かる。
翌朝、三輪氏と甲府駅で落ち合って、天徳舎に向かった。昨日往復した、手馴れた道だ。精進湖の湖畔を過ぎ、本栖湖入り口を過ぎて樹海の中の一本道を進む。
大きなコーヒー店の看板が目印。看板はあるが店はやっていないみたい。
そこを左に折れ、さらに左へ・・・。そうすると左側に鳥居が見えてくる。
案内をこうて応接室へ通された。いくらも待たないうちに、神籟様と宗代様が現われた。
宗代様は神籟様の娘である。娘と言っても、私より一つ上の65歳とか・・。
平成12年のこと、宗代様と巫女さんとが、急に倒れた。巫女さんは首が曲がって立たない。宗代様は腹が痛くて起きられない。医者に行ってレントゲンを撮ると、なんと、腹の中に菊の御紋章が写っているではないか。医者もどうしていいか分からない。再度レントゲンを撮ると、違う位置に来ている。もう医者ではお手上げである。
霊と交信能力のある信頼様が話しかけてみると、グァム島から70人の英霊が来ていた。
一人づつ言葉を交わし、これから慰霊することを伝えると、一人去り、また一人去り・・・、そのたびに菊のご紋は小さくなっていき、最後の一人が帰ると、菊のご紋は消え去った。
それまでは、『病気には原因がある』と言うことで、浄霊をやっていた神社であったが、それからは、英霊の鎮魂を主たる神事にしたという。
私はそのレントゲン写真を見たわけではないし、こんなことがあったと断言はできない。と言って、ありえない話だとも言い切れない。体験者が言うのだから、そうなのであろうとしかいえない。
私は事実として、戦ってくれた方々がいて、その方たちを支えてくれた方々がいて、今の日本があると思っている。だから『戦ってくれたおじいちゃん、おじいちゃんを支えてくれたおばあちゃん、こんな立派な日本をありがとう』なのだ。
上記の話が本当かうそかは、私にとってたいした問題ではない。たいした問題ではないことをどう書こうか迷っていたのだ。
さて、三輪氏が保管している1万5千点の戦史資料。これは、東京に展示館を造って慰霊をしつつ展示する。決して見世物ではないと言う点で一致。
神社を退去してから三輪氏と本栖湖湖畔の湖仙荘で、食事をしながらこれからの夢を語り合った。
近いうちに再度参拝させていただき、草むしりなりともご奉仕をしたいものだ。
手水を使ってはいると、正面には日本軍大神(やまとのいくさがみ)が祭られている。
上りきると、主祭神である生命神 高之峯大神を祭る社がある。
天徳宮からの富士山。ちょっと雲が掛かっているのが残念。
航空自衛隊新潟救難隊の夏祭り・・・・・・・・・・・・・平成21年8月7日
昨日、新潟救難隊の夏祭りに行ってきました。
去年よりだいぶ参加者が増えて、いゃぁー、にぎやかでした。
町内会、自衛隊協力会、自衛隊父兄会、救難隊を支援する会など、いろいろ集まって・・・。
隊員も、盆踊りやら、太鼓の演奏やら、裏方は交通整理から焼きそば作りまで、ご苦労様でした。
太鼓クラブの演奏はこちら
ひょっとこ踊りも飛び出した。
ありがたいこと・・・・・・・・・・・・・平成21年7月28日
昨日のことです。帰ったら、厚生労働省から手紙が来ていました。なんだろうと思って開けてみたら『特別弔慰金』とやらがもらえるらしい。
つまり、戦没者の遺族で、遺族年金がもらえなくなっている人に対する弔慰金だということだ。
私は18歳までは、遺児年金(というのかどうか良く分からないが・・・)戦没者の遺児としてのお金をもらっていました。
母は、遺族として遺族年金を死ぬまでもらっていましたよ。その母が死んで、今は、何ももらっていないのですが、そんな人を対象に、弔慰金をくれるという。
国ってありがたいですね。人によっては『国のために死んだんだから当然だ』と思うかもしれませんが、私はそうは思わない。
確かに父が生きていたら、私の人生も違ったものになったでしょう。でも、それはそれ、これはこれです。
そんな国をつぶそうとするやからが、次の国政を担うかもしれない。許せません。
『会員専用』にも記事あり
護衛艦『うみぎり』来航 その2・・・・・・・・・・・・・平成21年7月27日
26日、体験航海に行ってきました。
久しぶりに海の気をいっぱい吸って、波は穏やか、日も照らず、いい航海でした。
航空自衛隊新潟救難隊のヘリと捜索機も参加。史上初めての合同展示。歴史に残りますよ。
うみぎりの主砲は、75ミリ。とんでくるミサイルが、主たる攻撃目標だそうですが、今はもっと大きな口径の砲が主力とか。なぜかとしうと、攻撃目標が陸地に変わっているのだそうです。
『何で??』と聞きましたら『某国、パンダのいる国が、南方の島を狙っているので、奪還のためには陸地攻撃を必要とする』んだそうです。
さすが、よく分かってらっしゃる。
下のURLに、体験航海の写真もアップしました。
護衛艦『うみぎり』来航・・・・・・・・・・・・・平成21年7月24日
新潟西港山ノ下埠頭に、護衛艦『うみぎり』がやってきました。
私、自衛隊協力会の事務局長として、歓迎式典に参列。
夜は、歓迎パーティに出席。
7/25 7/26と、体験航海と、艦内見学があります。
詳しくは、下のURLをご覧ください。
http://kyouryokukai.sumera-ikusa.com/index.php?%E6%B4%BB%E5%8B%95%E5%A0%B1%E5%91%8A
子供や孫を支那朝鮮の奴隷にしたくなかったら、勝たねばならない自民党・・・・・・・・・・・・・平成21年7月23日
タイトル以上に書くことが無い。
新潟は、吉田六ざえもん、ぜひ、勝ってほしいなあ。
わが社にも、ポスターを貼りました。
うっかりしてましたけど・・・・・・・・・・・・・平成21年7月22日
天徳舎の場所です。
http://www.jinja.in/single/112512.html
こちらを参照してください。↑↑↑↑↑
24日、海上自衛隊護衛艦うみぎりが、新潟にやってきます。
体験航海もあります。その折には、航空自衛隊新潟救難隊も協力し、海上救難展示も行われます。
今日は『海の日』・・・・・・・・・・・・・平成21年7月20日
『海の恩恵に感謝し、「海洋国・日本」の繁栄を願う。』日だそうだ。でも、なんで七月第三月曜日?
祝日ってのは、○○月○○日って決まってるものだ。ただ単に、お休みの日が増えればいいって物じゃないだろう。
けったくそ悪いから、わしゃ仕事をしていた。
話し変わって、7月16日に三輪さんから電話が来て、『19日に天徳さんに行くが、一緒に行かないか』との事。いきたかったが、18日の夜は講演会があり、20日は仕事。19日は休めないことは無いが、なんといっても片道5時間かかる。最近、長距離を運転すると眠くなって、それが若いころのように我慢ができない。パーキングに入れて一眠りしないと、体力が続かない。残念だが、今回は見合せ。
またもや話は変わって、親鸞さんから『思い直してほしい』ということで、間に入ったI氏を通して連絡が来た。しかし、こちらにはこちらの事情があり、再復活はありえない。
よって、このページの前のほう(親鸞さん関係の記事)は削除します。よろしく
今のところ、会員専用ページに、新しい情報は載っていません。
英霊の加護はあった・・・・・・・・・・・・・平成21年7月4日
7月6日、三輪さんから電話が来た。
7月9日に上越へ行くが会えないかとの事、とうぜんOK。彼が上越へ来る用件は、警察の検査があるとの事。
そりゃそうだろう、小銃や手榴弾と名が付くものがごろごろあるのだから・・・。動くものは一つも無いが、一応名前は小銃とか、手榴弾とか・・・。名前だけとは言っても、一応は警察としてはぴりぴりするだろうな。
『いいじゃないですか。警視庁のお墨付きが、ただでもらえるんだから・・・。よかったじゃないですか』といっておいた。
でも何丁かは『疑問があるので、良く調べてからお返しします』として,持って行った。彼等も,あれだけ大勢(6~7人か)来て『何もありませんでした』では、格好が付かないだろうから、あれぐらいは手土産代わりだ。
『いいか、それは英霊の魂がこもっているんだから、粗末には扱うな』といっておいた。
それとは別に、15,000点の資料は、天徳舎という宗教法人に買い取ってもらえたとの事、まさに英霊の加護ですな。良かった。
天徳舎のパンフレットから抜粋
写真をクリックすると、拡大します。
ご無沙汰でーす・・・・・・・・・・・・・平成21年7月4日
あまりにも長くカキコが無いので、あきれ返ってこなくなっちゃった方もいるかもしれませんね。ごめんなさい。
6月末納期の大仕事で、連休からずっとばたばた。
それでも5月中は何とか隙間を作れたのですが、6月に入ったら追い込みで、時間が無いというより、頭が完全にそっちに行っちゃってました。(と、いろいろ言い訳する)
その合間を縫って、6月7日、戦史資料館相談役近藤建氏と共に東京へ行き、三輪さんという方にお会いしてきました。西村真悟先生の紹介です。
15,000点にも渡る戦史資料を集めておられる方です。歳を取り、病弱なため、誰かに管理してほしいとの事です。『このまま死んだら、あれだけの資料が散逸してしまう』と、心配しておられます。金儲けのネタにしたがる詐欺師のような連中が寄ってきて、そんな連中から資料を守るのも一苦労との事でした。
とはいえ、我が館は金がなく、買い取るわけにも行かず、見守るしかありません。英霊の加護を祈るばかりです。
明日は那須へ・・・・・・・・・・・・・平成21年5月23日
那須の戦争博物館も、法人化する予定が進みつつあります。
明日は那須へ行って、その打ち合わせ。法人化に付いては、私に一日の長あり。何かお役に立てるかも・・・。できる限りのアドバイスをしてきます。
『会員専用』にも、追加記事あり。ご覧ください。
小野田寛郎さんの講演会・・・・・・・・・・・・・平成21年5月17日
5月15日、東京で小野田さんの講演会がありました。
私も行ってきましたよ。ウヒョヒョヒョ
栗林館長からは『小野田さんは、昔みたいに喋れなくなっている』という情報があったのですが、どうしてどうして、・・・。
おごらず卑下しすぎず、たかぶらず卑屈にならず、まったくの自然体で、まっすぐに物事を考えるその見識には、頭が下がるばかりです。
『戦死した人は、決して戦争の犠牲者ではない。私も犠牲者ではない。ただ、国に対する義務を果たしただけだ』という言葉には、当事者でしか語れない重みがあります。
小野田さんは入隊前は、漢口で貿易商をしていたんだそうです。なんと、私の祖父も漢口で、本里洋行という貿易商を営み綿布を扱っていたそうです。
ひょっとしたら、会ったことがあるのではないかなあ。こんどお会いする機会が会ったら聞いてみたいものです。
講演中の小野田さん
小野田さんと並んで、筆者。兄弟みたいでしょ。
『会員専用』にも、追加記事あり。ご覧ください。
会員の皆様にお知らせ・・・・・・・・・・・・・平成21年5月5日
今日のブログもどきは、会員・理事・社員・顧問・相談役の皆様へのお知らせです。
戦史資料館は、拠点は新潟にありますが、会員、理事等、参画してくださっている方々は全国に散らばっています。
そこで、連絡事項、通達したい事項などの連絡用に『会員専用』のページを作りました。
メニュー欄の『会員専用』をクリックし、パスワードを入れると、閲覧できるシステムです。
関係者各位(会員・理事・社員・顧問・相談役)には、パスワードをメールでお知らせいたしますが、メルアドの分からない方も居られますので、メールが届かなかった方は、各ページの一番下の『ご意見・お問い合わせ』をクリックしてメールでご請求ください。
『会員専用』ページの内容は、決算報告や展示館建設へ向けての進捗状況報告、行事予定の相談など、一般の人に公表するに至らない中途経過などです。
よろしくお願いいたします。
今日は、上越遺族会の慰霊祭に行ってきました。・・・平成21年4月23日11:05
戦没者遺族は高齢化が進んでいます。新潟の遺族会は、活動ができず、解散もささやかれています。
その中でも、元気なのは上越遺族会。会長も70歳前で若い。かく言う私は64歳になりまして、遺族の中の最年少です。
それはさておき、家内と一緒に慰霊祭に出席してきました。終了後は忠霊塔に参拝。中に入れてもらい、50年ぶりに父の・・・なんていうんだろう、位牌でもなく、白木の箱でもない、マグカップぐらいの白い素焼きのような焼き物に父の名前が書いてあるものに面会しました。
本来なら遺骨を入れる壷なのだろうが、もちろん遺骨は無い。昭和18年ごろまでの戦死なら、髪の毛とか、つめとかが入っているそうだが、父は昭和20年の戦死だから、何も無い。中を見たら、小さな封筒に入った紙が一枚入ってました。
でも、何か安心しました。魂なんて、どうせ石の下や壷の中にあるものではない。大宇宙と一体となって、森羅万象に宿っていると、私は思っていますから・・・。
でも、忘れ去られずに祭られているという事実が、私に安心感を与えたのです。
直接の遺族ではない方にも、そんな気持ちを伝えて行きたい、そのためには、位牌や骨壷ではなく、戦史資料を保管展示することだと、意を新たにしました。
春秋恒例の軍歌軍装祭(戦争博物館主催)に行ってきました。・・・平成21年4月19日10:00
仕事ばかりだと、だんだん人間が小さくなってしまう感じで、たまにはリフレッシュ。
わしゃ、パチンコはしないし、競馬もやらない。ゴルフもしないし、酒も自分から飲みには行かない。一見まじめ人間。
ところが実は・・・、というほど遊び人ではないが、食べ物に凝っている。何を食べるかというと『夢』を食べるんです。これが結構
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